奈良・明日香 11 [風景]
水落遺跡です。
明日香村埋蔵文化財展示室(旧飛鳥小学校の建物)の駐車場横にありました。
「水落遺跡」は、天智天皇の時代の時計塔の遺跡です。
天智天皇は皇太子時代(660)に漏刻(水時計)を作っています。
漏刻は水を吸い上げ落ちて溜まっていく、その溜まり具合で時を知らせる仕組みのものです。
こちらについては、大津にある近江神宮内時計博物館に復元模型があります。
水落遺跡にあった建物では、1階に漏刻があり、2階には鐘があり、時がきたらそれを鳴らして一帯に時を告げました。
江戸時代までの不定時法とは違いこの時代に定時法を採用して、国家が正式な時間を管理するという優れた制度が採用されていたのです。
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付近を発掘調査中でした。
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大宮大寺跡です。
大官大寺は発掘調査により天武朝大官大寺と文武朝大官大寺の2寺が並立していたとの説が有力視され、今回訪れたのは文武朝大官大寺の塔・心礎あとです。
心礎は(他の礎石も含め)明治初期まで残っていたといわれていますが、明治22年橿原神宮造営用途のため掘り取り、搬出、明治42年土地も民有に帰して漸次開墾されてしまいました。
その礎石壊滅の際、本澤清三郎氏が僅かに残る礎石址を実測。
昭和49年からの発掘調査で、塔跡では基壇規模は東西36.3m・南北37.3mと確定され、礎石は全て抜き取られていましたが、心礎などの抜取り穴および据付穴の若干を検出されています。
また大量の焼土・焼瓦が出土し、塔も焼失したとされています。
その他、中門跡も発見、真の講堂跡も発掘により発見され、字「講堂」建物は金堂であると確定されました。
この「大官大寺」は文武朝大官大寺であり、その伽藍配置は中門・金堂・講堂が直線上に並び、回廊内の東に塔が配置され、西の塔の対面には堂塔は配置されない 配置であった。
その規模は群を抜く規模で南北 370m、東西250mと推定されています。
塔は1辺35m以上の基壇に、1辺15mの塔が建立されていたされています。
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元(本)薬師寺跡です。
本薬師寺は、『日本書紀』によると天武9年(680)に天武天皇が皇后(後に称制を経て持統天皇となる)の病平癒を祈念して発願した寺です。
寺の建立が開始された時期は不明ですが、天武天皇の崩御後の持統2年(688)に行なわれた仏事には少なくとも堂塔の一部が完成していたと考えられています。
その後、持統11年(697)年に開眼会が開かれ、翌年の文武2年(698)に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。
伽藍は、中心に金堂、その前面左右対称に東・西塔を配置し、南に中門を開きその両翼から回廊を巡らせ金堂北側の講堂に取り付く、いわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれているものです。
発掘調査は1976年の寺域西南隅での調査に始まり、金堂・東塔・西塔・中門・回廊の一部で行なわれ、貴重な成果が得られました。
金堂・東塔・西塔は、基壇等の規模が平城京薬師寺とほぼ同じである。一方、中門・回廊は、規模構造ともに異なることが明らかになりました。
伽藍の造営は金堂に始まり、続いて東塔・中門・回廊、更に遅れて西塔の順に行なわれたことがわかりました。
また、中門北側の調査で、寺の造成土の下層から西三坊々間路を検出し、最初に藤原京の条坊道路が設置され、それを埋め立てて造営したことが確認されました。
飛鳥四大寺(大官・薬師・飛鳥・川原)の一つに数えられました。
他の三寺とともに平城京に移った後も、平安時代前期まで伽藍の一部が残っており、奈良の薬師寺に対して、本薬師寺(もとやくしじ)とよばれるようになりました。
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現在、白鳳山医王寺の境内には、礎石が15個並んでいます。
金堂跡の様子です。
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元薬師寺の石碑。
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もう少し続きます・・・・
2010-10-30 23:07
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コメント(3)
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静岡に住んでいるとき水落町でしたが、
こういう歴史があったのかもしれませんね。
by manamana (2010-10-31 07:22)
本薬師寺跡では、彼岸花と一緒にホテイアオイが見られたのでは
ないですか? 今日、横を通りましたがかなり状態が悪くなっている
もののまだ咲いていましたよ。
by ため息の午後 (2010-10-31 19:59)
薬師寺ってどれだけ有るんですか??
by くまら (2010-11-01 23:28)